日本史を勉強しようと学校指定の教科書を渋々読み始めた受験生が思うことがある。それは、中新世?更新世?完新世?…あれ?私は日本史の勉強を始めたはずなのにいきなり地学?
こうしてやる気のある受験生がまた一人出鼻をくじかれるのである。
おそらく日本史の教科書の最初の50ページはほんとうに退屈だと思う。
なぜか?
それは、この最初の50ページが日本史ではなくダーウィンの進化論を説明しているからである。社会学というより生物学!?これを日本史の教科書を読み始めた受験生はいきなり読まされるのである。そりゃ苦痛だ。
でもだからといって教科書の編者のセンセイたちにイラつくのは勘弁してあげてほしい。だって、歴史を語り始める上でどこから語り始めるのが最適なのかあなたには決められますか?
編者のセンセイたちも思うところはあったはず。最初のつかみは面白い時代から書きたいなーとか(仮にも1冊の本を書いているんだから読者を楽しませようとする意地はもっていてほしい)。でも、書いているのは「教科書」だった。教科書というとてつもない制限があるなかでセンセイたちはけっきょくどこから第1章を始めたか?
答えはみなさんお持ちの教科書の通り、最初の人類が誕生するところからとなった。センセイたちもここから始めざるを得なかった。おもしろくはないけれど。
「この時代の歴史が記述されてない!」なんて批判を教科書が受けるわけにはいかないのだ。だから保険に入り、人類の誕生からたんたんと書き始める。こうすれば、これより以前に人間の歴史は存在しないのだから誰からも批判を受けずに済む(まあ学者のセンセイたちがよくやる保険加入なわけ。だから学者の本はつまらないとも言えるが)。
そんなこんなで書かれた教科書の第1章。受験生はどうか我慢して読み進めてほしい。
だけどあまりにも退屈なら、アサミのオンラインコースを受けるのもありだ。
大学入試に出るところを濃淡をつけて説明していく。日本史を楽しみながら速攻で終わらせたい受験生にはぜひ考えてほしいプランである(それだけ自信のあるコースをつくりつづけていく決意表明でもある)。
教科書の編者が最初にしたこと。それは、日本人(主人公)を誕生させること
歴史とは人の営みの連鎖だ。だから歴史の教科書が最初にしなければならないこと、それは人(主人公)を誕生させること。でなければ人の営みは始まらない。
だからもちろん山川日本史も最初の50ページで人(日本人)を誕生させている。
とはいえさきほども話した通り、歴史好きの人でもこの最初の50ページは苦痛に感じると思う。実際、日本史好きの僕も読むのがきつかった。
おそらく根本的な理由は、書かれている内容が「もろ生物学」だからである。歴史学・社会学としての日本史を学ぼうと本を読み始めたのにいきなり生物学のお話をされるわけだ。これはきつい。
いわく、今から約1万3千年前に氷河時代が終わり、温暖化がはじまった。これにより人類は大発展を遂げる。つまり、温暖化が文明を大きく発達させ、人類を新たなステージに連れて行った。
でも、久しぶりに山川日本史を読み返した僕にはちょっとした気づきもあった。そこでこの気づきについてみなさんと共有したい。
その気づきとは、日本は本当に教育に関して宗教色がないんだなと改めて気づかされたことである。以下ではこのことについてちょっと具体的に考えてみたい。
僕には大好きなドラマがある。『ザ・ホワイトハウス』(The West Wing)。アメリカで作られた政治ドラマだ。このドラマはほんとうにおもしろいのであなたが大学に合格した暁にはぜひ見てほしい。
ドラマにはこんなシーンがある。
ダーウィンの進化論は公立学校では教えない、神が人を作ったという聖書の教えを公立学校では教えるという決議を州の教育委員会が行おうとするシーンだ。
もちろんこの考えにはアメリカでも賛否両論、僕もどちらが正しいのかはわからない。だけどもし日本でこんな決議を教育委員会が行おうとしたらどうなるだろうか。あなたにも容易に想像がつくはずだ。大大大問題になることは間違いない。多くの日本人はみな口々にこんなことを言うだろう。「教育委員会の質もここまで低下したか」、「科学を無視して宗教を教えるとは何事か」と。そして世間からはほんとうに冷たい視線が教育委員会に注がれる。
この仮定からもわかる通り、日本の教育というものはほんとうに極限まで宗教というものとの関わりを断とうとする。これは戦前の皇国史観教育の反省、反動と言ってもいいものだ。良い意味でも悪い意味でも。だが昔の実際はどうだったか。昔の日本人は今の科学を知っていたか?ちなみにダーウィンが自然選択説に到達したのは1838年である。そう。それまでの人は人間が猿から進化したなんて考えもしていなかった。いまの僕らの考えと昔の人の考えは相当に開きがある。このことを心得てから歴史を学ばなければおよそ昔のことはわからない。
いまの僕らの考え方の根底には歴史上の天才たちの思想が色濃く反映されていることを心得なくてはいけない。まあある種侵食されていると言ってもいいのかもしれない。いまの常識は昔の非常識の場面はたくさんあるのだ。
本筋に戻す。
この章で受験生のみなさんに僕が1番伝えたかったこと、それは、山川日本史の第1章はおそらく退屈だろうが、人(日本人)を誕生させないことには日本史=物語は始まらないのだ。だから編者のセンセイたちも退屈なのを承知でここから書き始めた。だからどうかみなさんもセンセイたちの苦渋の決断を汲んで頑張って読み進めてほしい。
みんなで主人公(日本人)の誕生を目撃しよう(そんなにドラマティックではないけれど)。
日本人はどこから来たか?
地質学でいう更新世の終わり、日本列島はまだアジア大陸と陸続きだった。なので当時の人々の生活様式を考えれば、大陸の南方から日本列島にやってきたナウマンゾウやオオツノジカ、北方からやってきたマンモスやヘラジカを狩るために日本人の祖先は日本にやってきたのだろう。
ちなみに我々現代人の起源は、元をただせば20万年前アフリカで現れた新人(ホモ=サピエンス)であり、その新人がいろいろな地域に土着し独自の文化を育んだ結果がいまの世界である。そう考えれば、どこの国の祖先は偉いとかどこの国の祖先は野蛮だとか言うのがいかにナンセンスかわかると思う。だって本当の起源を遡ればどこの国の祖先もアフリカにたどり着くんだから(アフリカ単一起源説)。
井沢元彦氏の名著『逆説の日本史1』にこんな記述がある。
天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来した可能性はあるか?
井沢氏はこう答える。
可能性は充分にある、と。
僕が初めてこの記述に出会ったとき、たしかに違和感を覚えた。何かこう日本人は日本人単独で独自の文化を築き、発展させてきたんだと心のどこかで自負していたから。だけど、山川日本史の第1章を読み進めていくうちに日本人の祖先がどこから来たかとか、天皇家の祖先がどこから来たかとか、これらの問いには価値はないんじゃないかと思うようになった。
人類の祖先はアフリカで生まれ、その子孫たちが世界中に散らばり、それぞれの地域で独自の国を作った。これでいいんじゃないか。
獣を追って日本に来て、住み着いた僕たちの祖先は、中国や朝鮮から多くを学び、日本独自の文化を開花させていった。このことは『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝にも記述されている。
本質的な問いは、ではどのように日本独自の文化を開花させていったのか?ではないか。そしてここをめぐる探究こそ日本史を学ぶ価値、楽しみなのではないかと僕は思っている。
では次回、つづく。
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