僕が大学生の頃は「国際」や「環境」がつく科目が人気だった。具体的に言うと、「国際経済学」や「環境経済学」などだ。おそらく大学側も学生受けを狙ってそれっぽい科目を新規で設けたりしていたんだと思う。というわけで(どういうわけで?)今回は「国際化」という切り口で日本史を俯瞰してみたいと思う。
これを読んでくれているあなたはいつ日本は国際化したと考えているだろうか?
おそらくけっこうな数の人が「明治」と答えるような気がする。ちなみに僕が高校生のときにこの質問を投げかけられたら、「明治」と答えていたと思う。なぜなら、日本には「鎖国」という200年以上続いた政策があり、その印象があまりに強く僕の頭を掴んで離さないからだ。
だけど、本当のところはいつだったのだろうか?
じつは僕たちが考えているよりずっと昔、日本は世界を見ていたのだ。いや、見ざるを得ない状況にあったのだ。
どこまで遡るか?
答えは聖徳太子の時代までだ。
さて今回も古代の話をしていこう。
アジアに超大国現る。その名は隋
589年、中国の南朝の陳を滅ぼし400年ぶりに中華を統一した王朝が現れる。それが、隋である。アジアに超大国が再び現れた瞬間である。そしてこの隋の建国は、近隣諸国を震撼させた。
なぜなら、いままで中国国内で争ってくれていて近隣諸国まで見る余裕のなかった中国が統一されてしまったのである。統一されてしまえばどうなるか?今度は外国、とくに近隣諸国に中国(隋)が侵攻してくることになるのである。本当に恐ろしい状況になったのである。
事実、598年以降4回にわたって隋は隣の国高句麗に大軍を派遣している。そしてもちろんこの戦争を見つめていた日本もいつ隋に戦争を仕掛けられるか恐れていた。もしなんの準備もせずに侵攻されれば、隋の大軍になす術もなく国を取られてしまう可能性だってあったのだ。だから当時の為政者も本気で自国を守ることを考えた。そしてそんな切迫した状況で政務をとっていたのが、僕らにもなじみ深い厩戸王(のちの聖徳太子)その人なのである。
聖徳太子は日本を文明国にした
ここで聖徳太子とはそもそも誰なのかを振り返っておきたい。山川日本史研究50ページより引用させていただく。
厩戸王(聖徳太子)とは
厩戸王は、蘇我家の血を受け継ぐ存在であった。
推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の三者は、血縁を軸とした結合によって、権力集中を果たそうとしたのである。厩戸王は有力な大王位継承資格者として政治に参画した。
また、厩戸王については早い時期から伝説が成立し、聖徳太子という呼称も生まれていた。後世には太子信仰が生まれ、庶民の間にも浸透していった。
山川日本史もこう記述している通り、聖徳太子は早い時期から優秀な人とされ、多くの伝説が現在まで伝わっている人物である。お札の顔にもなっている。
では、現代の日本人からも尊敬を集める彼の功績はいったい何か?
それは、彼が日本を文明国にしたことだろう。
具体的には、彼は冠位十二階と憲法十七条を制定して日本を文明国にしたのである。
冠位十二階とは何だったか
冠位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分け十二階とし、紫・青・赤・黄・白・黒の六色の冠を授けたものである。
冠位はそれまで氏族ごとに賜って世襲された姓(カバネ)とは異なり、個人の才能や功績、忠誠に応じて授けられたもので、その官人一代限りのものであり、また功績によって昇進することも可能であった。
これ以降の冠位・位階制は、すべてこれを源流としている。
鞍作鳥・秦河勝・小野妹子らは、従来の門地にとらわれずに冠位を授与された例である。
つまり、この冠位十二階によって大臣家の蘇我氏や王族、地方豪族でなくても中央政府で出世していける道ができたことになる。そしてこれが当時の最たる文明国であった隋に日本も最低限の文明国であることを示す政治・儀礼制度であったわけである。
そういう意味では、隋の脅威が日本を文明国にし、才能ある若者に光を与えたと言っても良いだろう。
こんなふうに、なぜ冠位十二階ができたのかを考えなければ歴史は楽しく学べないはずである。冠位十二階はあくまで国際情勢悪化の産物なわけである。もちろん結果的には優秀な人材の確保という面でその後の日本に良い影響を与えていくわけではあるが。
あなたも国も何も変わらないのだ。差し迫った危機がなければ人は行動しない。
何かが変わるとき、その背景には必ず危機が存在している。
これからあなたは日本史の教科書を読み通し、名門大学の入試問題を解かなければいけないわけだが、この「なぜ」をほんとうに大切にしてほしい。
なぜ日本という国はこの制度をつくったのか、なぜ制度を変えたのか。ここには必ず理由がある。そしてこの理由は大抵の場合「危機」に置き換えられるはずである。ここに注目する癖をつけてほしい。
憲法十七条とは何だったか
憲法十七条は、官僚制に再編成されるべき諸豪族に対する政治的服務規定や道徳的訓戒という性格のものである。いまで言うと、高校の校則や会社の企業倫理行動規範のようなものと考えれば良いだろう。つまり、日本国の官吏としてどうふるまえば良いのかを示したものだ。
ちなみに第1条は、和を尊ぶべきことではじまる。「和を以って」を1番はじめにもってくるあたり現代の日本と通じるものがある。やはりすでにこの時代には僕たち日本人の感覚は出来上がっていたんだと思わされる内容である。
とはいえ、この憲法十七条が実際どれだけ有効性をもっていたのかは疑問があり、律令制の成立に直接結びついたとは言えないようだ。それはあなたも少し想像してみればわかるだろう。母校の校訓や校則を気に留める機会が何度あるだろうか。ほとんどないはずだ。ちなみにいま僕の母校の校訓をググったところ「質朴剛健」であった。高校生の時に気にしたことはもちろんない。
そうは言っても、この両制度が少なくとも隋との外交交渉の場では日本(倭国)の政治理念を示し、後世の法に強い影響を残したことは事実なのである。
舞 says
さらに詳しく聖徳太子について語ってほしい。
asami says
舞さん、コメントありがとうございます。ネタはたくさんありますので今度書かせていただきます。